京都市

まことにおもしろき女!龍馬の妻『おりょう』

龍馬とおりょう像

龍馬とおりょう像寺田屋前の船着き場
寺田屋向かいの宇治川派水川べりにある龍馬とおりょうの銅像

龍馬が故郷へ送った手紙に書いた
『まことにおもしろき女』それが「おりょう」
龍馬の妻となった女性です。

龍馬が寺田屋事件で負った傷を癒すために
薩摩藩の西郷隆盛らのすすめで
薩摩(現:鹿児島)へ湯治に行きました。

龍馬とおりょうは、船で薩摩へいくためには、
いったん大坂(現:大阪)へ下る必要があるので、
寺田屋の前の川から、舟に乗ったんですね。

おりょう独身時代住居跡
当サイト中京区史跡マップ⑤番の位置 MAPはこちら>>

龍馬とおりょうが知り合う前後に、おりょうが住んでいた辺り
といわれる場所の石碑です。
現在の京都河原町周辺に石碑はあります。

おりょうは、もともとは裕福な家庭で育ちました。

独身時代の本名は、「楢崎龍(ならさきりょう)」といい、
父は医師の楢崎将作(ならさきしょうさく)で、
青蓮院宮の侍医でもあり、母と妹2人、弟2人の家族でした。

父は、勤王家でもあったため、
井伊直弼(いいなおすけ)による安政の大獄で幕府に捕らえられ、
その後亡くなり、生活に困るようになったんです。

それでおりょうは奉公に出て、
この木屋町あたりに住んでいたそうです。

実はこのころに、おりょうの気性がわかる出来事があったんです!

後日龍馬がその出来事を知り、
故郷の乙女姉に送った手紙によると、

『そのもの(悪者)の悪者の胸ぐらをつかんで、
顔をしたたか殴りつけ、「そのほうがだまして大坂に連れてきた
妹を返さなければ、命をもらうぞ」と言うと、
悪者は「女のやつ(おりょう)殺すぞ」と言った。

その女は「殺し殺されにはるばる大坂に来た。
それはおもしろい、殺せ殺せ!」と言ったところ、
さすがに殺すわけにはいかず、とうとうその妹を受け取って
京都へ連れて帰りました。珍しいことです。』

悪い人にだまされ、妹が大坂の女郎に売られていったのを知り、
おりょうは、死ぬ気で懐に刃物を入れて、
大坂まで自分ひとりで妹を取りもどしに行って成功したんです。

相当肝っ玉の据わった、度胸のある女性ですよね^^

龍馬のような枠にはまらない感性の持ち主の目から見ると、
おりょうの行動は、とてもおもしろく
魅力的に映っていたんでしょうね。

また、おりょうは、誰もが振り返るほどの美人だったそうです。
(この記事の下の方におりょうの写真があります。)

寺田屋外観
京都市伏見区にある寺田屋
当サイト伏見区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>

妹を大坂から取り返しにいったあとも、おりょうの家族は、
食うや食わずの生活でとても大変だったようです。

そこで龍馬は、伏見にある船宿「寺田屋」女将のお登勢(おとせ)
おりょうの面倒を見てもらうようお願いしました。

おりょうだけでなく、おりょうの家族みんなを、
それぞれ人に預けて困窮から救っているんですね。

おりょうは、お登勢に養女扱いで面倒を見てもらい、
寺田屋に居た際は、「お春」と名前を変えていたようです。
龍馬とのかかわりを幕府側から偵察されるのを
避けるためだったんでしょうか。

おりょうが入った風呂桶寺田屋裏階段
おりょうが入っていた風呂桶と駆け上った裏階段

京都で薩摩藩と長州藩の中をとりもち、
薩長同盟の締結に成功し、慶応2年1月23日の夜中に、
寺田屋に戻って三吉慎蔵(みよししんぞう)
祝杯をあげていました。

そのとき、伏見奉行所の役人たちに踏みこまれました。

踏みこまれたとき、おりょうは入浴中でしたが、
何も着ず裸のままで裏階段を上って、
龍馬たちに役人が来たことを伝えたんです。

それによって龍馬たちは体勢を整えることができ、
傷を負いながらも逃げ出すことができたんですね^^

伏見薩摩藩邸跡
龍馬たちがかくまわれた薩摩島津伏見屋敷跡の石碑
(伏見区東堺町の松山酒造前)

当サイト伏見区史跡マップ⑤番の位置 MAPはこちら>>

龍馬たちが役人たちと応戦しているとき、
おりょうは誰に指図されるまでもなく、伏見の薩摩藩邸に
寺田屋で龍馬たちが襲撃されていることを報せに行ったんですね。

この機転の良さ、窮地に立たされた時の本能的な行動力は、
ほんとうにすごい!

こりゃ、龍馬でなくても、おりょうに心底惚れるだろうし、
大切にしないといけないって思いますよね^^

寺田屋事件の記事はこちら>>

龍馬とおりょう祝言石碑
龍馬とおりょう祝言の地の石碑
当サイト東山区史跡マップ⑥番の位置 MAPはこちら>>

龍馬とおりょうは、寺田屋事件のあとに西郷隆盛ら薩摩藩の好意で、
鹿児島へ日本人初の新婚旅行といわれる旅に出向いています。

以前は龍馬とおりょうが結婚したのは寺田屋事件のあと
西郷隆盛もしくは中岡慎太郎(なかおかしんたろう)
媒酌によるものと言われていましたし、
私も長い間そう思っていました。

それは、龍馬が書いた手紙の中で、おりょうのことを『妻』と
表現しているのが慶応2(1866)年12月4日以降だからですね。

が、龍馬が生きていた時代よりずっと後、
明治32年ごろのおりょうの談話によると、

「寺田屋事件よりも1年半ほど前に、内々の結婚式をした。」

と語っています。

このことから、こちらの石碑は作られたようです。

私が知っている通説が間違っていたのか、
おりょうの記憶違いなのか…

まあ、龍馬と結婚したおりょう本人が言っているので、
おりょうが寺田屋に預けられる前から、
実は龍馬とおりょうは、別居夫婦だったのかもしれませんねぇ^^;

おりょう30代おりょう晩年

左側の写真は、30歳のころのおりょうではないかと
いわれている写真です。

おりょうが美人だったことや逸話を考えると、
写真の女性の表情や雰囲気から、
「この写真はおりょうだ。」と言われれば、
「そうかなのかも。」とは思いますが…

右側の写真は、おりょうの晩年の写真で、
明治32年に撮られたものです。
こちらは本物だとはっきりしています。

目が二重ではっきりとしていて、
今の時代でも美人の部類に入るんではないでしょうか。

ただ右の写真と比べると、
目の大きさが全然違って見えるんですよねえ。
2枚ともおりょう本人の写真なのかなあ?

今回は、京都での龍馬とおりょうについて書きました。
それ以降のおりょうについては、また後日!

関連記事

スポンサーリンク







スポンサーリンク




関連記事

  1. 禁門の変で自ら命を絶った久坂玄瑞
  2. 幕末京都時代の桂小五郎
  3. 酢屋外観 四条から三条の河原町・木屋町の幕末史跡めぐり
  4. 下京区のエリアマップ 京都下京区にある坂本龍馬史跡マップ
  5. 土佐浪士寓居跡 龍馬とおりょうが出会った土佐藩浪士寓居跡石碑
  6. 龍馬通看板 龍馬の隠れ家「酢屋」がある龍馬通
  7. 岩倉具視旧宅外観 国の史跡に指定「岩倉具視幽棲旧宅」
  8. 京大キャンパス 現在は京大キャンパスに!陸援隊跡地

ピックアップ記事

  1. 寺田屋事件ピストル
  2. 錦小路薩摩藩邸跡石碑
  3. 坂本龍馬酢屋石碑
  4. 相国寺薩摩藩士の墓
  5. 同志社
阪急三宮駅
  1. 天保山風景
  2. 近江屋跡
  3. 天保山跡石碑
  4. 河原町駅
  5. 下京区のエリアマップ
  6. 寺田屋
  7. 鴨川
  8. 嵯峨嵐山看板
  9. 龍馬とおりょうパネル
  10. 坂本龍馬酢屋石碑
  11. 龍馬とおりょう像
  12. 相国寺薩摩藩士の墓

ピックアップ記事

  1. 島原大門
  2. 無動庵
  3. 大阪海軍塾跡地
  4. 近江屋跡
  5. 錦小路薩摩藩邸跡地

アーカイブ

スポンサーリンク




おすすめ記事

  1. 幕末黒船来襲に備え勝海舟の進言で建設西宮市の砲台跡2つ 西宮砲台外観
  2. 池田屋事件発端の重要人物「古高俊太郎」 古高俊太郎石碑
  3. 蛤御門の変で果てた志士たちが眠る上善寺と相国寺 相国寺薩摩藩士の墓
  4. 国の史跡に指定「岩倉具視幽棲旧宅」 岩倉具視旧宅外観
  5. 幕末に大阪湾の防衛拠点にもなった天保山 天保山跡石碑
  6. 京の「武市半平太(瑞山)」仮住まい石碑 武市瑞山寓居跡
  7. 大阪の土佐藩住吉陣屋で使われていた今も残る石垣 住吉陣屋石碑
  8. 海援隊から維新後は実業家として造船業を営んだ白峰駿馬 海援隊員一覧
PAGE TOP