龍馬暗殺の地(天満屋跡地(中井正五郎殉難之碑))
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慶応3(1867)年12月7日。
海援隊士の陸奥陽之助(陸奥宗光)(むつようのすけ(むつむねみつ))らが、
龍馬と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)を暗殺したのは、
いろは丸沈没事件の賠償金問題で龍馬に恨み持っているだろう、
紀州藩士三浦休太郎(みうらきゅうたろう)を黒幕と思いこみ襲った事件。
それが「天満屋事件」といわれるものです。
休太郎本人は、狙われていることを感づいていたので、
紀州藩から会津藩を通じて、新選組に護衛を頼んでいたようです。
「12月6日に三浦休太郎は、祇園の料亭「一力」へ行く。」
という情報を海援隊士らはキャッチして店の前で待ち伏せし、
出てきた駕籠をつけたんですよね。
でも、人違いということが判明^^;
翌日昼間に、天満屋を住まいとしている休太郎を
尋ねたんですが不在。
そして夜、休太郎ら紀州藩士と新選組の斎藤一(さいとうはじめ)らが
酒宴を催していたところを襲撃決行!
龍馬を敬愛していた、十津川郷士中井庄五郎(なかいしょうごろう)が
一番最初に斬り込み、抜き打ちで斬りかかったんですが、
休太郎に頬に傷を傷を負わせただけ。
その後は灯りが消されてしまい、真っ暗な中での斬りあいに!
と、そのとき、新選組側の機転で、
「三浦を討ち取った!」
という声があがったんです。
その声を信じた陽之助らは、すばやく引き上げてしまいました。
結局休太郎は、負傷するも命に別条はなし。
紀州藩・新選組側は4人が死亡、3人が負傷。
海援隊側は、3人が負傷し、中井庄五郎だけが死亡してしまいました。
そのため、天満屋跡地ににある石碑は、
「勤王之志士 中井正五郎殉難之碑」となっています。
事件の発端、龍馬の暗殺
龍馬暗殺の地(近江屋跡地)
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天満屋事件が起きた、事の発端は、慶応3(1867)年11月15日に、
龍馬と中岡慎太郎が、その時龍馬が宿としていた河原町の近江屋で
何者かに襲われて、暗殺されたことです。
この日の夜近江屋には、龍馬と慎太郎と下僕の藤吉がいました。
そこへ十津川郷士を名乗る武士が訪ねてきたんです。
藤吉は龍馬に取次しようと階段を上っているところを背後から斬られました。
藤吉は大声を上げ、龍馬らに知らせようとしますが、
刺客たちはそうはさせまいと何度も斬りました!
その物音を聞きつけた龍馬は
「ほたえな!」 ※ほたえな!=さわぐな!
と、たしなめる声をあげたので、その声をめざして刺客が部屋に入り、
問答無用で龍馬らに斬りかかりました。
手元に刀を置いていなかった龍馬と慎太郎は、応戦もままならないまま、
結局、龍馬は当日に、慎太郎は翌々日に絶命してしまいました。
「絶対に坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺した奴を探し出す!」
龍馬が隊長の海援隊員や慎太郎が隊長の陸援隊員らは、
隊長を殺した犯人探しを始めたんですね。
最初は新選組説が強かったようです。
あるとき、陽之助のところに、
「紀州藩の三浦休太郎があやしい。」
という情報が入ったんです。
ちょうど、龍馬らが暗殺される以前、
海援隊の船、いろは丸が、紀州藩の明光丸にぶつかってこられて
沈没した事件で、海援隊側が巨額の賠償金を得ていたんです。
そのことを休太郎が恨んでいたため、
新選組をけしかけて、龍馬を暗殺したという情報でした。
陽之助は、海援隊の中では珍しく、土佐藩出身ではなく、
犯人と思っていた三浦休太郎が属する紀州藩の脱藩浪士だったので
そんな情報が陽之助の耳に入ってきたんですね。
そこで陽之助は、海援隊員と陸援隊員を中心としたメンバーに
声をかけ、休太郎殺害の同志を募りました。
海援隊では、陽之助のほか、沢村惣之丞(さわむら そうのじょう)、
陸援隊では、岩村精一郎(いわむらせいいちろう)ら、他有志を含め、
総勢16名(15名ともいう)で襲撃に向かうことになったんですね。
酢屋外観
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龍馬が暗殺されたときに京(現:京都)にいた海援隊隊士の陽之助らは、
海援隊の京都本部の「酢屋」に集まって
休太郎を討つための計画を練ったんです。
酢屋改修の際、屋根裏に隠してあった「海援隊日記」が見つかって、
そのなかに龍馬暗殺の犯人探しのために走り回っている様子などが
細かく記載されているそうですよ。
ちなみに、陽之助は明治になってから、
酢屋に訪れた際に感激の涙を流したとか…
幕末から明治維新にかけての動乱や、
龍馬との思い出などが一気に思い出されたのかもしれませんね^^
天満屋事件と新選組
右:西本願寺御影堂門(当時の新選組屯所) 右:当サイト下京区史跡マップ③番の位置 MAPはこちら>>
龍馬らが暗殺されたとき、一番最初に犯人と疑われたのは
新選組でした。
その後陽之助らは、龍馬と慎太郎のかたき討ちということで
休太郎を討ち取ることを決めたとき、
新選組の三番隊隊長の斎藤一をはじめとする7名が
紀州藩から会津藩経由で頼まれ、休太郎を警護していました。
休太郎が、天満屋を住まいとしていたのも、
その時新選組が屯所としていた本願寺が近くにあったので、
いざというときにもすぐに駆けつけることができるから
だったそうです。
でも、屯所に居た新選組の隊員たちが
天満屋に着いたときには、すでに陽之助たちは
引き上げた後だったようですね^^;
ただ、陽之助らが襲撃した際、
その場に居た新選組の斎藤一らの働きがあって
結局休太郎は顔を斬られた程度で助かり、
中井庄五郎は討ち死にしてしまいました。
陽之助らにとって、結果的には
得るものがあまりなかった襲撃だったようですね^^;
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