残念さんの墓 当サイト尼崎市史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>
兵庫県尼崎市には「残念さん」といわれる
長州藩士のお墓があります。
このお墓と龍馬とは直接なんのかかわりもありません^^;
でも、今私が住んでいる尼崎市に、
幕末に関する史跡があるというのを最近知ったので、
「これは行っておかないと!」
ということで、ちょっと遠出の散歩気分で参ってきました^^
元治元(1864)年7月19日に京都でおこった
禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で
幕府軍に負けた長州藩兵たちが、長州へ落ちのびる際、
そのなかのひとり、山本文之助(やまもとぶんのすけ)が、
尼崎城北の口御門で藩兵に捕らえられました。
そして、捕縛されたその日のうちに、
「残念、残念。」
と言いながら、留置された役人の詰所の便所で
自害したんですね。
そして、長州藩と取引のあった油屋喜平の世話で
お墓が建てられたそうです。
この山本文之助は、長州藩兵のなかでも、
中間といわれる身分で足軽と同等の扱いのようです。
なのに、なぜ後世に名を残したのかというと…
その頃、庶民の間では幕府に対する不満が
とても強くなっていたところへ、
長州藩に対する同情と人気が高まっていたんですよね。
そして、文之助が亡くなるときに、
「残念で口惜しい、もし口惜しいことがあれば
自分に参れば一つだけ願いをかなえてやろう。」
と書置き(遺書)に書かれていたそうで、
噂を聞いた当時の多くの人たちが列をなして、
わざわざ大坂(現:大阪)からお参りに来たからなんです。
あまりの人の多さに大坂奉行所は、参拝禁止を決めたんですが、
それでもお参りに来る人は絶えなかったそうです。
その後、願掛けの神様として多くの人に
お参りされているんですね。
森光子さんが長らく主演をつとめた演劇「放浪記」の作者、
林芙美子(はやしふみこ)氏の未完の絶筆となった「めし」にも
残念さんのお墓に願かけに参る場面が登場しています。
少し話はそれますが…
禁門の変の前年文久3(1863)年8月におきた天誅組の変で
亡くなった、龍馬とも親交のあった土佐藩浪士の
吉村寅太郎(よしむらとらたろう)も、大和(現:奈良)の地で
「残念さん」と呼ばれてあがめ信仰されたといわれていますね。
そのほかにも、
長州藩の大坂蔵屋敷が禁門の変の後に取り壊され、
そこにあった柳の木の葉を煎じるどんな病気も治るとされ、
柳の木への参詣なども流行ったそうです。
禁門の変とは
蛤御門 当サイト上京区史跡マップ③番の位置 MAPはこちら>>
元治元(1864)年7月19日、前年の八月一八日の政変で、
京から追放された長州藩が、藩主の汚名を晴らし、
天皇を奪還するべく京都御所の御門のまわりで
幕府軍と戦闘をおこなった。
その結果、長州藩は薩摩藩・会津藩主力の
幕府軍に負けてしまい、朝敵となってしまった。
負けた長州藩兵たちは、京から長州へと落ちのびたが、
中には、幕府側に捕まったものもいた。
また、禁門の変を蛤御門の変ともいうのは、
御所の蛤御門周辺での戦いが
一番激しかったことからきている。
今も蛤御門には、その時の弾痕が残っている。
残念さんのお墓のそばの公園
現在残念さんのお墓は、阪神電車の大物(だいもつ)駅から5分くらいの
県立尼崎病院の裏手あたりにある「杭瀬東墓地」にあります。
その墓地の向かい側には、「大物公園」があります。
春には桜が綺麗な公園です。
また、毎年8月には野外能舞台で
「尼崎薪能」がおこなわれるそうです。
大物公園には、今は走ることのなくなった蒸気機関車のD51、
デゴイチ(昭和の人にはなつかしい!)が飾られていました。
写真のデゴイチは柵に囲まれていますが、
4月~11月の第3日曜日だけ、解放されるそうですよ^^
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