池田屋事件跡地の石碑
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元治元(1864)年6月5日長州藩士、土佐藩脱藩浪士や、
その当時の急進的な尊王攘夷志士(そんのうじょういしし)たち
20数名が宿屋の池田屋にあつまり、談合しているところへ
新選組浪士たちが襲撃し、ほとんどが闘死や自害して果てました。
それが池田屋事件です。
この事件自体は龍馬とは関係はありません。
が、この事件で死んだ望月亀弥太(もちづきかめやた)や
北添佶摩(きたぞえきつま)は、土佐藩の脱藩浪士でした。
亀弥太に至っては、勝海舟(かつかいしゅう)が
全体の監督をし、龍馬が塾頭として運営していた
神戸海軍操練所へ入所していたんです。
龍馬は、この池田屋事件を江戸(現:東京)で知り、
両名らが亡くなったことを大層悲しんだそうです。
そして、この池田屋事件も原因のひとつとなり、
責任を取る形で勝海舟は江戸へ戻されて役を外され、
神戸海軍操練所は解散することになりました。
自分と同郷の志士がかかわった事件で
龍馬の夢を実現する神戸海軍操練所が閉鎖になり、
師と仰ぐ勝海舟も処罰を受けたのは、
龍馬にとって相当ショックな出来事だったことでしょう。
でも、この神戸海軍操練所が解散した後、
龍馬が中心となり、脱藩浪士たちで結成された、
長崎の亀山社中(海援隊)へと継承されていくことになるんです。
龍馬の転んでもただでは起きない精神力、発想力、行動力!
これがあったからこそ、日本をひとつにまとめ上げる
道筋をつけれたんでしょうね^^
池田屋の跡、現在は「はなの舞」
という居酒屋になっていました。
ランチもやっているので、せっかくだからここで
主人とお昼ごはんを食べようか思ったんですが、
ちょっと予算よりも高かったので、
今回はやめてしまいました^^;
長州藩邸跡の石碑
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池田屋事件で、新選組との死闘からなんとか逃げ出した、
数少ない生き残りの志士たちは、
池田屋からすぐ近くにある長州藩邸へ逃げ込み助かりました。
でも、土佐藩脱藩浪士の望月亀弥太は長州藩邸前まで逃げましたが、
自刃して亡くなっています。
同じく土佐藩脱藩浪士の野老山吾吉郎(ところやまごきちろう)は、
長州藩邸に逃げ込みましたが、傷が深かったため
割腹して自害して果てました。
京都ホテルオークラ敷地内にある桂小五郎の像
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桂小五郎(かつらこごろう)も
本当は池田屋に居て事件に遭遇するはずでした。
が、桂小五郎本人の回想録によると、
「当日、会合の時間よりも早く池田屋に着いたため、
対馬藩屋敷へ行って時間を潰している間に
事件が起こってしまい、難を逃れた。」
とあり、これが通説となっていますね。
ただ、長州藩の京都留守居役の乃美織江(のみおりえ)の手記には、
「桂小五郎は、池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰った。」
と書かれています。
『逃げの小五郎』の異名をもつ桂小五郎ですから、
実際は、その場に居合わせながら、
うまく逃げ延びたのかもしれませんね^^
古高俊太郎邸跡石碑 当サイト下京区史跡マップ②番の位置 MAPはこちら>>
四条河原町を上がってすぐのところに「しる幸」
というお店があります。
ここは幕末当時、枡屋という薪炭を扱っているお店でした。
枡屋の店主の名は、枡屋喜右衛門(ますやきえもん)といい、
本名は、古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)という名の勤王志士。
普段は枡屋の店主として、京の街の中に溶け込み生活しながら、
裏では武器を集めたり、情報を集めたりしていたんです。
その古高俊太郎が怪しいと目をつけたのが新選組です。
そして、古高俊太郎は新選組に捕らえられ、激しい拷問の末、
ついに長州藩士たちと計画している内容を
口走ってしまったそうです。
その拷問は相当なものだったようで、
最後には、逆さ吊りにされ、足の甲から裏へかけて
五寸釘を打ち込んで突き抜けたところへ
百目ろうそくを立てて火をつけられたといいます。
もしもこの拷問が事実なら、今の日本では、
到底考えられない、想像もできない拷問ですっ。
そして古高俊太郎の自白をもとに、
新選組は池田屋に踏みこみ、
池田屋事件は起きてしまったんですね。
池田屋事件とは
八月十八日の政変で失脚した長州藩が主体となり、
尊王攘夷派の勢力挽回のため京都に騒乱を起こし、
孝明天皇を長州へ連れ去るという計画立てた。
その相談をするために元治元(1864)年6月5日に
長州藩士の吉田稔麿(よしだ としまろ)たち、
土佐系脱藩浪士の北添佶摩たち、その他、
宮部鼎蔵(みやべていぞう)ら尊王攘夷志士達が池田屋に集合。
新選組は、拷問の末に古高俊太郎の自白を受け、
その日の22時頃に池田屋に踏みこみ、
闘争の末その計画を未然に防いだ。
この事件をきっかけに新選組は、
広く世間に知られるようになった。
しかし最近の研究では、この日池田屋に集まった理由は、
京都に騒乱を起こすための計画ではなく、
仲間である古高俊太郎が新選組に捕まったため、
彼を救うための相談に集まったものであり、
新選組が、自分たちの行為を正当化し、
尊王攘夷派の信用をおとしめるために、
でっちあげの理由をつけて襲った冤罪ではないかという
説もでてきている。
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