龍馬とともに、最期を遂げた陸援隊隊長「中岡慎太郎」。
京都の円山公園には、龍馬と並んで居る
中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の像があります。
この像は、龍馬ファンのなかでも有名な銅像ですね。
龍馬と中岡慎太郎が並んでいますが、
龍馬は立ち姿で中岡慎太郎は座っています。
それは、中岡慎太郎は、当時の平均身長である150cm強に対して、
龍馬は身長が175cm以上もあったため、
ようするにバランスが悪いということだったようです^^;
中岡慎太郎は、幕末の尊王攘夷の志士で、
坂本龍馬、武市半平太(たけちはんぺいた)、
吉村寅太郎(よしむらとらたろう)とあわせ、
土佐四天王といわれています。
龍馬は海援隊、慎太郎は陸援隊の隊長として
活動したのは有名ですよね。
龍馬は、純粋な尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士とは少し違い
人の心に訴えかけるだけでなく貿易や商売、つまり、
「藩どうしがお互いの利益を通して手を組ませる」
という考え方も持っていました。
ですが、慎太郎は生粋の尊王攘夷、倒幕派の志士として
常に行動し、土佐藩を脱藩後は長州にわたり、
同じ脱藩浪士たちのまとめ役のような存在でした。
慎太郎がかかわったものをざっと並べると、
・下関戦争(長州側)
・薩長同盟
・薩土密約
・大政奉還
歴史の教科書に載っている幕末の事柄がほとんどです。
自分自身や自分が居た土佐藩のためだけではなく、
他の藩や日本のために、どれも命がけでかかわっています。
このすごい行動力!ただただ、脱帽です!
そして、幕末最終時期には、徳川幕府を倒すために結成した
龍馬の海援隊は、長崎に本拠地を置きましたが、
慎太郎が隊長の陸援隊は、
京都の白川土佐藩邸に本部を置きました。
海援隊は、通常は貿易や物資の運搬をして利益を得ながら、
いざというときには海から船で応援する海軍的な立場だったので
京都からは遠く離れた長崎に本部を置いたんですね。
しかし、陸援隊は純粋に武力での倒幕が目的の団体だったので、
すぐに行動に移し、参加できるように京都に本部を置いたわけです。
慎太郎が京都にいた当時に住んでいたところです。
幕末当時は「菊屋」という土佐藩御用達の書店でした。
菊屋の位置は、龍馬と一緒に暗殺された近江屋から、
河原町通りを挟んだあたりのすぐ近くです。
この菊屋の息子、峰吉を慎太郎も龍馬も
とても可愛がっていだそうですし、
峰吉もとても二人を慕っていたようです^^
上記、菊屋から歩いて2~3分のところにあった近江屋。
慶応3(1867)年11月15日の夜、慎太郎は、
ここで龍馬と一緒にいるところを、襲われました。
犯人は、今もはっきりしていませんが、
見廻組(みまわりぐみ)説が有力ですね。
なぜか、このとき龍馬も慎太郎も刀を手元に
置いていなかったそうです。
そのため、即座に反撃することができなかったんですね。
新選組や幕府の役人たちに常に命を狙われていることは、
重々わかっていたはずなのに…
上記の菊屋の息子の峰吉は、二人が襲われた時刻、
「軍鶏鍋(しゃもなべ)を食べたい。軍鶏を買ってこい!」
と龍馬に言われて買いに出かけていました。
その間に悲劇の事件は起きたんです。
そして、峰吉が軍鶏を買って帰ってきたところ、
龍馬たちが斬られて倒れているのを最初に発見。
もしも、軍鶏を買いに出かけていなければ、
峰吉も龍馬たちと一緒に殺されていたかも…
龍馬は襲われた当日に息絶え、
慎太郎は2日後に29歳という若さで亡くなりました。
そして慎太郎は、亡くなる前、気丈にも土佐藩士の谷干城(たにたてき)らに
襲われた時の状況を事細かに説明したそうなんです。
慎太郎が亡くなった11月17日、
龍馬と慎太郎の遺体は、京都の東山霊山に埋葬されました。
勤王の志士として、武力で江戸幕府を倒すために
幕末を走り続けた慎太郎は、
江戸幕府の終わりを見届けられなかったのは
さぞかし、心残りだったでしょうね。
そして、お墓から京都の街を見下ろしながら、
現代をどんなふうに感じているんだろう…^^;
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