上京区

禁門の変で自ら命を絶った久坂玄瑞

禁門の変(蛤御門の変(はまぐりごもんのへん))で
自刃した長州藩士の久坂玄瑞(くさかげんずい)は、
龍馬たちと同じ、京都霊山護国神社に眠っています。

久坂玄瑞の墓
久坂玄瑞たちの墓石
当サイト東山区史跡マップ④番の位置 MAPはこちら>>

久坂玄瑞だけでなく、同じく禁門の変で亡くなった、
来島又兵衛(きじままたべえ)、入江九一(いりえくいち)
寺島忠三郎(てらしまちゅうざぶろう)らも一緒に並んで眠っています。

そして、禁門の変で亡くなってはいませんが、
高杉晋作(たかすぎしんさく)の墓碑もありましたね。

翠紅館翠紅館会議石碑
翠紅館会議跡 当サイト東山区史跡マップ②番の位置 MAPはこちら>>

東山の京都霊山護国神社に向かう坂の途中に、
翠紅館の跡地があります。

ここで、翠紅館会議と後に呼ばれる会合が持たれたんですね。
そこに久坂玄瑞も参加していたんです。

文久3(1863)年1月27日、
長州藩の久坂玄瑞、井上聞多(いのうえもんた)
土佐藩の武市半平太(たけちはんぺいた)らが集まりました。

また、同年6月17日にも会議は行われて、
長州藩の桂小五郎(かつらこごろう)
久留米藩の(まきいずみ)ら各藩の代表が集まりました。

そこで、攘夷や倒幕の方法などを具体的に検討したそうです。

この翠紅館会議がおこなわれていたころが、
尊王攘夷派の志士たちにとって、
一番活気があって思いのままに行動できた
いい時期だったんですよね。

現在、翠紅館の跡地は、京大和という
高級料亭になっていました^^

長州藩邸石碑
長州藩邸跡石碑
当サイト中京区史跡マップ⑪番の位置 MAPはこちら>>

京の長州藩邸は、河原町御池にありました。
藩邸の広さは約3000坪もあったようです。

翠紅館会議があったのと同じ年、文久3(1863)年の八月一八日に、
薩摩藩と会津藩が手を組んだクーデターがおきました。

その結果、公武合体派が主導権を握ってしまい、
玄瑞が属する長州藩を筆頭に尊王攘夷志士たちは、
京(現:京都)から追われてしまったんです。

それが始まりとなって、
後の禁門の変へとつながっていくことになるんですね。

蛤御門蛤御門説明板
蛤御門(京都御所) 当サイト上京区史跡マップ③番の位置 MAPはこちら>>

玄瑞は、桂小五郎とともに、
「武力で長州の無実を訴える」
という急進派をなんとかなだめ、抑えていました。

でも、翌年文久3(1863)年6月5日におきた池田屋事件。

新選組に長州藩士を含む尊王攘夷志士たちが
斬殺、捕縛されたのを受け、
急進派の声をついに抑えることが
できなくなってしまたんです。

そして7月19日に、藩主の無実の罪を晴らすという名目で挙兵、
京都御所に攻めいった、禁門の変(蛤御門の変)といわれる
戦闘が起こったんですね。

最初は、蛤御門で戦っていた来島又兵衛らの部隊が
会津藩軍を負かす勢いでした。

でも薩摩藩軍の加勢で劣勢になっていき、
堺町御門で戦っていた玄瑞らは、御所内の鷹司邸に入り、
そこで25歳の生涯を自ら終わらせてしまったんです^^;

西郷隆盛(さいごうたかもり)に明治になってからでも、

「久坂先生が今も生きておられたら、
私のような者がこのような大きな顔をしては居られません。」

と言わせたくらいの人物だったんですね^^

島原大門久坂玄瑞密議石碑
左:島原大門 右:角屋 久坂玄瑞密議の石碑 当サイト下京区史跡マップはこちら>>

玄瑞は、安政5(1858)年から翌安政6(1859)年にかけて
江戸遊学をした後、日本三大花街のひとつ、
島原の角屋などで、尊皇攘夷の急進派として
朝廷工作など様々な運動を行いました。

また角屋は、玄瑞がしばしば暗殺されそうになるのを
避けるため、潜んで密議をした場所なんですね。

そして、この角屋は新撰組も良く利用していたとのこと。

敵対する者同士がひとつ屋根の下に・・・
というコワイ状況も度々あったよう。

お店側は鉢合わせにならないように
大変気を配ったんだそうですよ^^;

そして、角屋ではありませんが、同じ島原にあった桔梗屋の
芸妓の辰路と深い仲になっていたそうですね^^

久坂玄瑞と龍馬のかかわり

        
龍馬は、久坂玄瑞と初めて会ったのは、
まだ一度目の脱藩前で土佐勤王党の使者として、
文久2(1862)年1月に党首の武市半平太の手紙を持って
萩(現:山口)に行ったときです。

そして、玄瑞から半平太への返書には、

『諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、
草莽志士糾合義挙の外にはとても策これなき事と、
私共同志中、申合せ居り候事に御座候。

失敬ながら尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても、
大義ならば苦しからず。』

※今の大名や公卿たちの能力はあてにできない。
身分を問わず、志の高い志士たちが立ち上がる以外には方法はない。
失礼ながら、土佐藩も長州藩もほろびてしまっても
日本国の大事のためならばしかたない。

と書かれています。

まだ、倒幕という言葉が一般的ではないこの時期に、
玄瑞は、幕府や藩を否定しようとする考えにまで
進んでいたんですね。

そして龍馬は、萩へ行ったわずか2カ月後に脱藩しています。

萩の玄瑞への訪問で、志士として本当の意味で目覚め、
大きな影響を受けて脱藩したのではないか、
ともいわれていますね。

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