京都市

龍馬「寺田屋襲撃事件」の弾痕跡を見てきて・・・

寺田屋事件ピストル

この柱の傷跡ってなんだかわかりますか?!

弾痕跡は、慶応2年(1866年)1月23日の深夜、
寺田屋で龍馬が伏見奉行所の役人たちに襲われ戦った際、
応戦するのに、ピストルを撃ったときについたそうです。

寺田屋弾痕跡と刀傷

来た人みんなが触るからか、弾痕跡はツルツルになってます(笑)

刀傷は、龍馬が襲われたときについたものか、
龍馬の襲撃事件の4年前に起きた、薩摩藩士同士の粛清事件で
できたものかは定かではないようです。

寺田屋は、維新の際に起きた鳥羽伏見の戦いで類焼したため、
現在の寺田屋は龍馬が生きていた頃のものではないので、
傷跡もにせものであるという説があります。

また建物は焼けたが、焼け残った柱を移築しているので、
傷跡は本物だという説もあります。

でも「今から約150年前に龍馬がこの場所で
薩長同盟について考えたり、議論をしたりしたんだ。」
という事実を、私も実際に目で見、感じたかったので、
柱の傷跡は、実物説を信じていたいですね^^

寺田屋龍馬襲撃事件

時は、慶応2年(1866年)1月23日の深夜のこと。

前日には、京都の薩摩藩邸で龍馬が立ちあい、
西郷隆盛、桂小五郎らが薩長同盟の密約が成立。

寺田屋外観
寺田屋外観 当サイト伏見区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>

そして伏見の寺田屋に戻り、
待っていた三吉慎蔵(みよししんぞう)に事の成功を語り合い、
そして午前3時ごろ、そろそろ寝ようかという時に
幕府側の役人が龍馬を捕らえるためにやってきた
わけです。

その時の状況は、寺田屋の女将お登勢の手記によると、
うしろはちまき抜身の槍をもった姿で、
その数は100人を下らなかったそうです。

でも役人たちは、

「どうしよ、こうしよ。」
「誰行け!彼れ行け!」

とおろおろしていたそうです^^;

その様子を見たお登勢は、

「こんな人が幾万人捕らえに行こうとも、
龍馬、慎蔵には、所詮かなうはずないと思って安心した。」

ということが書かれています。

たったひとりの人間を捕まえるために
100人以上もの大人数で来るなんて、
龍馬の存在は、そうとう幕府の人たちにも
怖れられていたんですね。

そのころ龍馬たちは2階の部屋で、
「人の足音がしのびしのびに2階の下を歩いている
と思っていると、6尺棒の音がからからと聞こえる」
と、何か異変を感じていたようです。

おりょうが入った風呂桶寺田屋裏階段
おりょうが入っていた風呂桶と駆け上った裏階段

丁度そのとき、おりょうは入浴中に役人がいるのを見つけ、
風呂桶から飛び出し、裸のままで、
龍馬たちがいる2階へ駆け上り、部屋へ飛び込み、
「敵が来た!」と知らせたんですね。

この機転があったからこそ、龍馬と慎蔵は、
不意打ちをかけられることもなく、体勢を整え
役人たちと応戦することができました。

寺田屋事件ピストル
幕吏たちと応戦した際に使ったと言われている
ピストルのレプリカ

このときに持っていたピストルは、
長州藩の高杉晋作からもらって
護身用に持っていたものだそうです。

龍馬は刀を使わずに、ピストルだけで応戦したようです。
すぐれた剣術家のはずなのに、人を斬るということを
とても嫌ったそうなんです。

でもそのために、命を落とすかもしれなかった大きなケガを
負うことになってしまったんですよね^^;

このとき、おりょうは、この襲撃中に寺田屋を抜け出して、
ひとり伏見の薩摩藩邸へ走って行って
この事件のことを報せに行っているんです。

おりょうは、龍馬の命の恩人なんですね^^

後日、龍馬が姉の乙女に手紙を送った中にも
「おりょうがいたからこそ、龍馬の命は助かった。」
ということを書いています。

そして、役人たちがひるんだすきに、龍馬と慎蔵は、
裏階段から下り、裏小路から逃げ出すことに成功!

寺田屋事件材木小屋跡
寺田屋から逃げたときに一時かくれていた材木小屋跡地の石碑
(京都市伏見区過書町(大手筋通) 濠川大手橋の西詰北側)
実際の材木小屋はこの地点ではなく、少し南東の村上町にある
淀川造船敷地にあったとも言われている。

当サイト伏見区史跡マップ④番の位置 MAPはこちら>>

龍馬たちは、寺田屋から逃げ出した後、
濠川川べりの材木小屋に隠れましたが、
応戦時に、龍馬は左手の指の動脈を斬られてしまったため、
血が止まらず自力では、もはや動けなかったようです。

このとき、幕府の役人たちが龍馬たちを探して、
伏見の町中を埋め尽くしている様子だったため、
三吉慎蔵の日記によると、当時の武士らしく、
「切腹しよう。」と龍馬に言ったそうです。

でも龍馬は、
「死を覚悟しているのなら、君は薩摩藩邸へ走っていけ。
もし途中で敵に会えばそれまで。
自分もまたここで死ぬまでだ。」

そう言って、三吉慎蔵を伏見の薩摩屋敷へ行かせたそうです。

潔く死ぬことが武士の尊さのように思われていた時代に、
「死」よりも「生」の大切さを説いたのは、
すごいことですよね。

伏見薩摩藩邸跡
龍馬たちがかくまわれた薩摩島津伏見屋敷跡の石碑
(伏見区東堺町の松山酒造前)

当サイト伏見区史跡マップ⑤番の位置 MAPはこちら>>

おりょうと慎蔵の報せのおかげで、
薩摩藩士たちが濠川を舟で救出に向かい、
龍馬は無事に保護されました。

その後、おりょうとともに鹿児島へ傷を癒し、
また、幕府の追手から隠れる意味も含めて、
日本初の新婚旅行と言われる旅に出たんですね^^

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