龍馬の海援隊は、海軍の役割をもっていたのと、
普段は船を使って商売をするということで、
本拠地を長崎に置いていました。
一方、慎太郎率いる陸援隊は、
倒幕の際すぐに京(現:京都)をおさえられるようにと、
本拠地を京に置いたんですね。
でも、いざ京都に本拠地を置くとなっても
どこでもいいってわけでなかったんです。
陸援隊の隊員は、70名以上も人数がいて、
しかもほとんどが脱藩浪士だったので、
いつ新選組や幕府の役人たちに捕まるかわからないわけです!
そこで慎太郎が目をつけたのが、
造ったままで、誰も住んでいないままになっていた
北白川の土佐藩邸だったんです。
陸援隊跡地(現:京都大学北部構内) 当サイト左京区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>
当時の北白川は、京都中心部から離れた、
田畑が広がるある意味田舎のようなところだったので、
不便で土佐藩では使いづらかったようなんですね。
中心部から離れているだけに土地は広くて
隊員一人当たり8畳ものスペースが割り当てられたそうですよ^^
その敷地内でいつ倒幕の時ときが来てもいいように、
日々、洋式の戦いの訓練をしていたそうです。
陸援隊の本拠地跡地は、京都大学の農学部や理学部がある
北部構内の敷地になっています。
残念ながら、石碑などは何もないので、
写真は京都大学の入口辺りの風景写真しかないんです。
京大で勉学に励んでいる学生さんたちは、
この場所で江戸時代末期に、幕府を倒すための集団が
寝起きし、訓練していたことなんて
全く知らずに過ごしているんでしょうねえ^^
土佐藩邸跡石碑
当サイト中京区史跡マップ④番の位置 MAPはこちら>>
陸援隊は、土佐藩の独立部隊という位置づけの
武力団体だったので、河原町の土佐藩邸から、
食事として毎日ご飯と香の物だけが賄われたんです。
河原町の藩邸と白川の藩邸は、結構距離が離れているので、
持っていくうちにご飯も冷めてしまうだろうし、
毎日運ぶだけでも大変だったろうな…^^;
でも、ご飯だけしか支給されないので、
おかずは、隊員たちが自分たちで調達しないといけなくて
大変だったようですねえ。
陸援隊隊長 中岡慎太郎
龍馬に比べると少ぉし地味な印象の中岡慎太郎です^^;
でも、幕末維新の功績はかなりのもの!
禁門(蛤御門)の変や下関戦争に長州側の立場で参加、
薩長同盟を結ぶための土台作りに龍馬よりも早くから行動、
薩摩(現:鹿児島)と土佐(現:高知)との間で結んだ薩土密約、
大政奉還のための根回し、などなど。
龍馬は独自路線で独創的な発想で
尊王攘夷、倒幕を考えていましたが、
慎太郎は、当時の勤王志士の王道をいっている人でした。
薩長同盟以降は、龍馬も同じく奔走し活躍しましたが、
慎太郎の働きを外すことはできません!
薩長同盟が結ばれた後、第二次長州征伐が失敗に終わり、
幕府の勢いがどんどん衰え、
だんだんと尊王倒幕の空気が強くなってきたのを感じた
土佐藩は、ついに龍馬と慎太郎の脱藩をゆるしました。
そして龍馬は海援隊の隊長となり、
慎太郎は陸援隊で自ら隊長となったんですね。
中岡慎太郎仮住まい石碑
当サイト中京区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>
この写真は、四条河原町を上がったすぐのところにある、
今はあぶらとり紙屋さんになっていますが、
当時は土佐藩御用達の本屋「菊屋」という店でした。
そこに慎太郎は、北白川の土佐藩邸に移るまで住んでいました。
菊屋の峰吉という息子をとても可愛がっていて、
峰吉も慎太郎や龍馬のことを慕っていたそうです。
だから菊屋から土佐藩邸へ離れた後、
龍馬とともに暗殺された日も
峰吉に薩摩藩まで用を頼んだりしていたようですね。
陸援隊と海援隊
龍馬が隊長の海援隊は、本部を長崎に置いていましたが、
京都屯所(詰所)としては、龍馬が仮住まいとしていた
「酢屋」にその場所を置いていました。
龍馬の海援隊は、事があった時には海から海軍として
土佐藩の援軍となり、幕府を攻撃する立場でした。
それと同時に、普段は船を使って商売をして
自分たちでお金を稼いでいたんですね。
だから、海援隊の隊員たちは
生活に困ることはありませんでした。
でも陸援隊は、純粋に倒幕のための志しを持った
浪士たちが集まっている集団なので、
自分たちで利益を得ることができないんですよね。
毎日、土佐藩からのご飯とお漬物はもらえるとはいえ、
それだけでは、とても貧しい食生活ですよね。
司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」のなかで
陸援隊の食事を見、実際に食べた龍馬が慎太郎に
「貧なるかな。」
と言って大笑いしたというのがあります。
実際そんな食生活だったようですね^^
だから、海援隊と陸援隊は、
経費をお互い助け合うという規約に基づいて、
実質的には海援隊が陸援隊の経費を補っていたんですね^^
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