海援隊から維新後は実業家として造船業を営んだ白峰駿馬

海援隊員一覧

白峰駿馬(しらみね しゅんめ)は長岡藩(現:新潟)の藩士ですが、龍馬の海援隊の隊員となった人ですね。

嘉永元(1848)年に長岡藩士、鵜殿瀬左衛門長義の三男として生まれました。

文久2(1862)年に江戸へ留学し、兄の鵜殿団次郎(うどの だんじろう)を頼っていき、築地の軍艦操練所に入っています。

鵜殿団次郎は、勝海舟に見出されて幕臣に登用されています。
その縁で白峰駿馬は勝海舟の門下生となり、軍艦操練所に入ったんでしょうね。

明治維新後は、同じ海援隊士で龍馬の妻、お龍の妹の君江と結婚した菅野 覚兵衛(すがの かくべえ)と共にアメリカへ留学した後、一旦は明治政府に仕えますが実業家として造船所を経営したりしており、明治42(1909)年4月1日に亡くなりました。
 

龍馬との出会い

神戸海軍操練所跡酢屋
左側:神戸海軍操練所跡地 右側:酢屋(海援隊京都屯所跡地)

越後の白峰駿馬が龍馬と出会ったのは、白峰駿馬が元治元(1864)年に長岡藩を脱藩し入門した神戸海軍操練所でのことです。

神戸海軍操練所がなくなったあとも、龍馬の亀山社中、海援隊に参加しました。
海援隊では、プロシア商人チョルチーから購入した帆船「太極丸」の船将になっています。

龍馬が京都河原町の近江屋で暗殺されたとき、報せを聞いて現場へ駆けつけた海援隊士や陸援隊士のなかに白峰駿馬も居たんですね。
 

明治維新後の白峰駿馬

白峰造船所跡
白峰造船所跡地

明治維新後、上記にも記したようにアメリカのニューヨーク海軍造船所で造船技術を学び、帰国後は明治政府の海軍省に仕えました。

しかしその海軍省を辞し、明治11(1878)年6月1日に現在の横浜市神奈川区で白峰造船所を設立。
岩崎弥太郎が興した三菱商会の修理を引きうけるなどしましたが明治18年に倒産しています。

その後明治28(1895)年6月には現在の大阪市大正区で改めて白峰造船所を開業しました。
上記の写真は、大正区の白峰造船所があった場所のものです。

今はどこかの配送センターのようなものになっていますね。

龍馬も新政府ができたあとは、政府の役人になるのではなく貿易事業の道を進みつもりだったとも言われています。
もしも龍馬が維新後も生きていたら白峰駿馬も龍馬の事業に参加をしていたかもしれませんね^^
 

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