中京区

三条から御池界隈の幕末史跡めぐり

半平太と寅太郎寓居跡

当サイト中京区史跡マップ②番の位置 MAPはこちら>>

四条から三条にかけて、そこここに幕末を感じさせる
史跡がありますが、三条から御池通りを上がったあたりも
幕末を彷彿させる史跡があります。

やはり、木屋町通沿いに多いですね^^
でも、四条~三条よりは少し落ち着いた感じがします。

龍馬と同じ土佐藩の武市半平太(瑞山)(たけちはんぺいた(ずいざん))
吉村寅太郎(よしむらとらたろう)の仮住まい跡や
尊王攘夷が叫ばれ始めた初期の頃、志士たちが
拠りどころにしていた長州藩邸跡などもありますよ^^

武市半平太寓居跡
当サイト中京区史跡マップ⑧番の位置 MAPはこちら>>

三条木屋町を少し北に上がったところに、武市半平太(瑞山)が
京(現:京都)に住んでいた跡の石碑があります。

龍馬と半平太は、尊王攘夷の志士として活躍する前から
の友人であり、遠縁の親戚でもありました。

おたがいにニックネームで呼び合うほどの仲。

龍馬の性格からすれば人をあだ名で呼ぶのはうなずけますが、
半平太は生真面目でとおった人だけに、
あだ名で呼ぶというのはどれほど心を許し合った仲か
というのがわかる気がしますね^^

半平太が京で活躍したのは、土佐藩の上士たちを
を尊王攘夷派(そんのうじょういは)で固めることに成功し、
京で尊王攘夷を実現するために長州藩士らとともに
朝廷へ働きかけていたころですね。

でも半平太が京で活躍する期間は
文久2(1862)年8月~文久3(1863)年4月の
わずか8カ月ほどのことでした。

文久3(1863)年4月に土佐(現:高知)へ戻った後、
前藩主の山内容堂(やまのうちようどう)により
牢獄に入れられ、最期は切腹させられて命を終えました。

吉村寅太郎寓居跡
当サイト中京区史跡マップ⑧番の位置 MAPはこちら>>

吉村寅太郎が土佐藩を脱藩し、
京に潜伏しているときに住んでいた場所は、
半平太が住んでいたところと隣り合わせです。

寅太郎は土佐にいる頃は、半平太が結成した
土佐勤王党の一員でした。

でも、半平太がかかげる一藩勤王は無理だと思い始め、
土佐藩の中で一番最初に脱藩しました。
脱藩=土佐勤王党も抜けるということですね。

龍馬は、寅太郎が脱藩した20日後に脱藩しています。
寅太郎が第1号で、龍馬は第2号の脱藩者でした^^

そして藩の後ろ盾もない中、尊王攘夷を実現するために
長州(現:山口)や京へ出て活動します。

その後、天誅組を結成しますが、
八月十八日の政変で、それまで尊王攘夷の最先端を走っていた
長州藩が一夜にして朝敵となったあと、
最期は大和(現:奈良)で幕府側と戦い戦死しました。

長州藩にまつわる史跡

池田屋事件跡地の石碑
当サイト中京区史跡マップ⑦番の位置 MAPはこちら>>

特に八月十八日の政変以降、尊王攘夷の志士たちは、
京にいるのが見つかると新選組たちから
問答無用で斬られる立場になりました。

その状況の中で、三条通りにある池田屋に集まった
長州藩士、土佐浪士などが談合しているところへ
新選組が斬りこんできます。

激しい戦闘の末、その場にいた尊王攘夷志士たちは
ほとんどが戦死かそのあと死亡しました。

この戦いに参加した土佐脱藩浪士の中には、
このころ龍馬が塾頭になっていた、神戸海軍操錬所のメンバー
望月亀弥太(もちづきかめやた)らもいました。

この事件もひとつのきっかけとなり、神戸海軍操錬所は
その後閉鎖されることになるんですね^^;

長州藩邸石碑
当サイト中京区史跡マップ⑪番の位置 MAPはこちら>>

幕末当時、長州藩邸があった場所は、
今は京都ホテルオークラがそびえ立っています。

幕末の初期の頃は尊王攘夷をリードする立場として
朝廷にも好意的に見られていましたが、
薩摩藩と会津藩が手を組んだ八月十八日の政変で
一夜にして失脚し、長州へ引き上げました。

その後に起きた長州藩士が新選組に襲撃された池田屋事件。

それに憤慨した長州藩は、ついに暴動をおこします。

それが世にいう禁門の変(蛤御門の変)で
幕府軍に負け、朝敵になってしまいました。
そして自ら藩邸に火を放って、長州(現:山口)へ逃げ落ちたんですね。

桂小五郎像小五郎と幾松の寓居跡
左側:当サイト中京区史跡マップ⑫番・右側:当サイト中京区史跡マップ⑭番の位置 MAPはこちら>>

長州藩士の桂小五郎(かつらこごろう)は、
明治維新の功績から、西郷隆盛、大久保利通(おおくぼとしみち)
と並んで「維新の三傑」と呼ばれています。

京でおきた禁門の変(蛤御門の変)(はまぐりごもんのへん)の際、逃げ遅れた小五郎は、
乞食姿に変装して当時の三条大橋のしたで隠れ、
そこに恋人の芸妓で幾松(いくまつ)が握り飯を上から落とした
というのは、とても有名な話です。

小五郎は、神道無念流(しんとうむねんりゅう)
免許皆伝の腕前を持つすぐれた剣客でしたが、
龍馬と同じく、人を斬ることをとにかく避けたそうです。

だからこの時も、斬り込むことよりも
逃げることを選んだんですね。

そして幾松は、自分の命も危うくなるのもかえりみず、
小五郎をずっと京で支え続けたんですね。

ときには、新選組の近藤勇に詰め寄られても
小五郎を護りぬいたという話もあります。

その後小五郎と幾松は、明治になってから、
正式に夫婦となっています。

命をかけた、幕末のラブロマンスですね^^

上記写真の右側が、小五郎と幾松の木屋町での仮住まい
としていた場所の石碑です。

今では「幾松」という料理旅館になっています。

宿泊ももちろんですが、食事だけでもできるようで、
希望すれば、食事の前に国の登録有形文化財になっている
「幾松の間」の説明も聞けるようですよ^^

そのほかの史跡

佐久間象山寓居跡佐久間象山遭難の地
写真左側:佐久間象山寓居跡石碑、写真右側:佐久間象山暗殺の碑
左側:当サイト中京区史跡マップ⑩番・右側:当サイト中京区史跡マップ⑬番の位置 MAPはこちら>>

佐久間象山(さくましょうざん)は、松代藩(現:長野)の藩士で、
妻は、勝海舟の妹です。

象山は、江戸で洋学、兵学などを教えていました。

龍馬は、江戸(現:東京)に剣術修行中に
数ヶ月間だけですが、象山塾に入門しています。

象山は、幕府の命令で京へ上り、
一橋慶喜(徳川慶喜)(ひとつばしよしのぶ(とくがわよしのぶ))
公卿に公武合体と開国を説いて回りました。

そのため、その頃の尊王攘夷派の志士から、
西洋かぶれと見られてしまい、元治元(1864)年7月11日、
河上彦斎(かわかみげんさい)らの手で
暗殺されてしまいました。

スポンサーリンク







スポンサーリンク




関連記事

  1. 霊山歴史館 幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」を見学
  2. 禁門の変で自ら命を絶った久坂玄瑞
  3. 京大キャンパス 現在は京大キャンパスに!陸援隊跡地
  4. 土佐浪士寓居跡 龍馬とおりょうが出会った土佐藩浪士寓居跡石碑
  5. 島原大門 京都下京区にある勤王志士幕末史跡マップ
  6. 嵯峨嵐山看板 京都右京区にある坂本龍馬史跡マップ
  7. 蛤御門 京都御所の蛤御門に残る「禁門の変」の跡
  8. 寺田屋 今でも泊まれる!京都伏見の寺田屋

ピックアップ記事

  1. 同志社
  2. 二条城外観
  3. 坂本龍馬肖像画写真
  4. 五代友厚大阪商工会議所銅像
  5. 島原大門
住吉陣屋跡
  1. 薩摩伏見藩邸石碑
  2. 相国寺薩摩藩士の墓
  3. 天満屋事件跡
  4. 龍馬像撤去
  5. 天保山跡石碑
  6. 武市瑞山寓居跡
  7. 半平太と寅太郎寓居跡
  8. 真言坂石碑
  9. 山本文之助の墓
  10. 和田岬砲台
  11. JR高知駅龍馬像
  12. 鴨川
  13. 伏見区中書島駅

ピックアップ記事

  1. JR高知駅龍馬像
  2. 京都御所
  3. 龍馬通看板
  4. 梨木神社2
  5. 阪急河原町駅

アーカイブ

スポンサーリンク




おすすめ記事

  1. 京都中京区にある坂本龍馬史跡マップ 中京区西側
  2. 京における幕末土佐四天王の働き 土佐四天王の像
  3. 幕末にあった土佐藩の大坂住吉陣屋跡地とゆかりの地 東粉浜小学校
  4. 京都東山七条界隈にある幕末史跡マップ 京阪七条駅
  5. 京都東山区にある坂本龍馬史跡マップ 三条駅
  6. 大阪天王寺区にある坂本龍馬史跡マップ 真言坂石碑
  7. 大阪市福島区にある坂本龍馬史跡マップ 大阪市福島区中央市場前交差点
  8. 京都市上京区の幕末史跡を訪ねて歩く 同志社
PAGE TOP