龍馬とおりょうが出会った土佐藩浪士寓居跡石碑

土佐浪士寓居跡
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天誅組の変で生き残った志士を中心とした
土佐藩浪士たちは、京都東山にある大仏で知られた
方広寺の南門近くの河原屋五兵衛の隠居処を借りて
隠れ家としていました。

龍馬は、そのころは神戸の海軍塾の塾頭だったので
ここを拠点にはしていなかったと思いますが、
それでも時々ここに来ていたようです。

ここには、龍馬以外にも中岡慎太郎(なかおかしんたろう)
望月亀弥太(もちづきかめやた)、池内蔵太(いけくらた)
千屋寅之助(ちやとらのすけ)らが、
出入りしていたようですね。

でも、このころには新選組などの目が厳しくなっていたので、
ずっとこの場所に居続けるわけにはいかず、
ちょっと来ては、他の所へ場所を移すという
生活だったそうです。

ほんとうに命がけだったんですね^^;

おりょう30代おりょう晩年
左側:30歳のころのおりょうといわれている写真 右側:晩年のおりょう

この方広寺大仏の隠れ家に、龍馬の妻となったおりょうの
母親の貞と末の妹が留守番と世話人として働いていました。

その縁で、龍馬とおりょうは知り合ったようです。

おりょうの回顧録では、おりょうの母が龍馬に身の上話をし、
それを聞いた龍馬がおりょう一家を気の毒に思ったんですね。

また数回おりょうともここで会ったことがあったので、
龍馬からおりょうの母へ
「おりょうを嫁にくれないか。」
と、話したんだそうです。

それで、結婚の話がまとまったとか…

でも、この時は龍馬は神戸を中心に江戸や京都、福井など
忙しくしていたので、一緒に暮らすことはなかったようです。
 

方広寺と幕末

方広寺大仏殿跡
 
文久2年8月に、尊王攘夷派で急進公卿の中山忠光を盟主として立て、
吉村寅太郎(よしむらとらたろう)
池内蔵太らが方広寺に集まりました。

総勢38人、そのうち土佐系浪士は18人居たそうです。

ここから大和国(現:奈良)へ向かい、
そして天誅組の変が起きたんですね。

もうひとつの池田屋事件石碑池田屋事件殉難者名

文久4年6月5日の池田屋事件では、この隠れ家に出入りしていた
望月亀弥太や北添佶摩(きたぞえきつま)らが、
闘死もしくは自害してなくなりました。

その関係のためか、この隠れ家は会津藩士たちに
踏みこまれて家財は没収され荒らされてしまい、
しかもその場に居たおりょうの母も
奉行所へ連れて行かれたんです。

でも、かかわりがないと認められて
その日のうちに解放されたようです^^

ですが、さすがにこの場所に居続けることはできなくなって、
龍馬が手配しておりょう一家をそれぞれ預けたんです。

それでおりょうは寺田屋へ預けられることになったんですね。

現在の大仏殿の跡

大仏殿跡石碑大仏殿跡公園

京都にあった大仏は、豊臣秀吉がつくったものですが、
今では石垣が残されているのみです。

そして大仏殿跡は公園になっていました。

だけど、雑草がボーボー生い茂っていて、
あまり手入れされていないような感じですね^^;

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