京都と大阪での小松帯刀

小松帯刀屋敷跡石碑
小松帯刀屋敷跡石碑
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小松帯刀(こまつたてわき)は、
幕末の薩摩藩士のなかでは、西郷隆盛(さいごうたかもり)
大久保利通(おおくぼとしみち)に隠れて
あまり目立った存在ではないですね。

でも、薩摩藩の家老でとても有能な人だったようです。
この帯刀がいて支えてくれたからこそ、
薩摩藩の中で隆盛や利通は、実力を思う存分発揮できたんです。

家老という位なので、年齢が高いのかと思いきや、
龍馬と同い年だというのにびっくりしました^^

帯刀は、身分にこだわらずに
家臣や百姓にも気を配る人でもあったようで
人望も厚かったそうです。

このブログには、残念ながら帯刀の写真はありませんが、
きりっとした眉毛の整った顔立ちのようですね^^

薩摩藩の小松帯刀は、京都御所の西側、
応仁の乱の洛中での最初の合戦地あたりで、
御花畑のある近衛邸に屋敷を構えていました。

実際の屋敷は、石碑の向かい側だったそうです。

この帯刀の住いで、薩摩藩と長州藩が手を組んだ
薩長同盟が最終的に締結されたともいわれていますね。
 

蛤御門天龍寺門
左:京都御所蛤御門 右:天龍寺
左:当サイト上京区史跡マップ③番の位置 MAPはこちら>>
右:当サイト右京区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>

元治元(1864)年7月19日の禁門の変では、
当初は幕府からの出兵要請に消極的で
一時は、西郷隆盛と相談の上断りを入れて
中立の立場をとっていましたが、最終的には出兵。

帯刀は隆盛とともに薩摩藩兵を指揮し、
長州軍を撃退しています。

そして長州藩兵の部隊が禁門の変直前に集結していた
嵯峨天龍寺に残っていた兵糧米を
戦災で苦しんだ京都の人々に配ったんだそうですよ^^
 

薩摩藩蔵屋敷跡神戸海軍操練所写真

龍馬が勝海舟(かつかいしゅう)の海軍塾が
池田屋事件や禁門の変の影響で閉鎖になったとき、
勝海舟が帯刀に手紙を送って塾生を引き受けてほしいと頼み、
大坂(現:大阪)の薩摩藩蔵屋敷で庇護したんですね。

それがきっかけで、帯刀と龍馬は出会い親しくなったようです。

そうして、海軍塾解散後に龍馬たちが設立した亀山社中の
援助などもしたんですね。

ずいぶん後の話になりますが、
龍馬がたてた倒幕後の新政府の人事構想では、
隆盛や利通らを抑えて一番に挙げられていたくらい
信頼を置いていたんですね^^

 

二本松藩邸跡
二本松薩摩藩邸跡地
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この二本松の薩摩藩邸で、薩摩藩の帯刀、隆盛らと
長州藩の桂小五郎(かつらこごろう)らが
今までいがみ合っていた感情を超えて
日本の未来のために手を結ぶべく会合をもったんです。

でも、龍馬が遅れて到着したため、
龍馬が居ない間は、話がすすまなかったようですね^^;

龍馬が到着後、ようやく薩長同盟は締結されたんです。

薩長同盟締結後に龍馬が伏見の寺田屋に戻った際
幕吏に襲撃されて逃げ、九死に一生を得て、
おりょうとともに薩摩(現:鹿児島)へ養生の旅にいったときも
龍馬は帯刀の屋敷に泊まっていたそうなんですよね^^
 

二条城
二条城
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薩長同盟締結後、今度は龍馬は中岡慎太郎(なかおかしんたろう)
とともに大政奉還案を説いて回りました。

そして、土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)
この帯刀が、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
大政奉還を進言したんですね。

でも、その一方で帯刀は、
同時期に岩倉具視や大久保利通らがすすめていた
討幕の密勅の請書に署名をしているんです。

龍馬らの考えに賛同して

「平和的に倒幕したいけれど、
それが無理なら、武力討幕も仕方ない。」

という揺れる考えがあったんでしょうか^^;
 

小松帯刀の大阪の墓所跡

帯刀は、明治3(1870)年8月16日に、35歳の若さで
大阪で病気のために亡くなっています。

そのため、当初は大阪の稱念寺に帯刀のお墓はあったようですが、
後に鹿児島県の小松家歴代墓所に移されています。

そして稱念寺には、石碑が建てられています。
 

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