薩摩藩の京都で最初にできた藩邸は錦小路

錦小路薩摩藩邸跡地
錦小路薩摩藩邸跡 当サイト中京区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>

京都にある薩摩藩邸のなかで、一番最初に造られたのが、
錦通り東洞院の藩邸でした。

でも、幕末の薩長同盟など大きな出来事は、
二本松藩邸で起きているので、
「薩摩藩邸といえば二本松」のイメージが強くて、
錦通りの藩邸はあまり印象にはないですね^^;
 

龍馬写真

錦通りの薩摩藩邸へは、龍馬は元治元(1864)年8月に、
勝海舟の紹介で西郷隆盛に初めて会いに行った
といわれています。

その時の逸話が残っています。

龍馬は、隆盛が来るまで部屋で待っている間、
庭に出で鈴虫を捕っていたんです。

そこへ部屋へ来た隆盛に龍馬が言った最初の言葉は、
初対面のあいさつではなく、
無邪気な笑顔で、
 
「虫かごは、ありませんか。」

それを受けた隆盛も、あわてて虫かごを用意させたんですね。

話し合いも終わって龍馬が帰った後、
鈴虫の入った虫かごが置いたままになっていたんです。

そして、それから3カ月後に龍馬が藩邸を訪ねたとき、
なんと!まだ鈴虫が生きていたんですよね。

実は、龍馬がつかまえた鈴虫は3日目で死んでしまい、
3カ月後に龍馬が訪れた時にいた鈴虫は、3代目。

たかが鈴虫ですが、いつ来るかわからない龍馬のために
ずっと鈴虫の世話をしつづける、
この隆盛の誠実さはすごいものですね^^

こうして、龍馬と隆盛の熱い信頼関係は育っていったんですね^^

また、龍馬と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)
暗殺された慶応3(1867)年11月15日、
龍馬と慎太郎は、龍馬が住み家としていた近江屋にいました。

その日、慎太郎は以前住んでいた菊屋の息子の峰吉に
薩摩藩邸へ手紙をことづけています。

その薩摩藩邸が、この錦通りの藩邸だったといわれています。

そして下記にある寺田屋騒動の際には、
急進派の薩摩藩士たちに混じって、
土佐藩を脱藩した吉村寅太郎(よしむらとらたろう)たちも
一緒にいたんです。

でも錦藩邸に居る、久光が喜八郎らに出した命令では、

「薩摩藩士たちだけに伝えること。
他の藩の人間は放っておいてよい。」

ということだったので、命を落とすことはありませんでしたが、
土佐藩へ強制送還されてしまったんですね。
 

寺田屋騒動

寺田屋騒動石碑寺田屋騒動の碑
寺田屋騒動の石碑・記念碑 当サイト伏見区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>

寺田屋騒動が起きた文久2(1862)年4月。

薩摩(現:鹿児島)から藩主の父で事実上の指導者の
島津久光(しまづひさみつ)が兵1000人を率いて
京(現:京都)に上ったときに入ったのは、
錦通りの薩摩藩邸だったんですよね。

久光の上洛のことを、薩摩藩士の中でも
急進派の有馬新七(ありましんしち))たちをはじめ、
京にいる尊王攘夷の志士たちは、
倒幕のためのものだと思いこんでいました。

だから、新七たちはその倒幕の先鋒として、
兵を上げることを計画したんです。

そのために薩摩藩の定宿になっていた伏見の寺田屋に
集まって計画を練っていました。

でも…久光の考えは真逆でした。
公武合体の考えだったんです。

また、京に入った久光は、
朝廷から尊王攘夷過激派の志士たちを
鎮撫する命令を受けました。

そして久光は、寺田屋に集まっている薩摩藩士たちと
同じ思想で仲間の藩士、奈良原喜八郎(ならはらきはちろう)たちに
「暴発を思いとどまって、藩邸に来て自分の話を聞くように。」
と、伝えるように命令しました。

ただ、もしもその命令に逆らったときは、
「上意討ちしてもかまわない。」
ということを含めて寺田屋へ向かわせたんですね。

それが文久2(1862)年4月23日でした。

でも喜八郎たちは、新七ら蜂起部隊を慰留することはできなくて、
おなじ藩士仲間同士で戦闘になってしまったんです。

その結果、新七を含め、6人の急進派と
鎮撫側の藩士1人が命を落とし、重傷の2名は、後日切腹。

また、当日は病気で参加できなかった急進派の藩士の山本四郎は、
帰藩謹慎処分を受け入れなかったので、
後日切腹を命じられました。

その他の20数名の薩摩藩士らは、
喜八郎らの命がけの説得に応じて投降し、
薩摩へ帰らされて謹慎処分を命じられたんですね。
 

大黒寺
大黒寺

伏見にある大黒寺は、
寺田屋騒動で亡くなった9名が眠っています。

この騒動関連で亡くなったのは合計10名のはずですが、
9名だけしかお墓はないんですね。

それは、鎮撫側で亡くなった道島五郎兵衛(みちしまごろうびょうえ)だけは、
薩摩藩の菩提寺、東福寺の山内寺院の即宗院に葬られたからなんです。

他の9名は、薩摩藩側からすると反逆者になるので、
菩提寺で眠ることは許されなかったんですね^^;

そして、寺田屋の近くにある大黒寺に葬られたんですが、
この9名のお墓をたてたのは、西郷隆盛(さいごうたかもり)です。

事件の2年後にたてたそうで、
墓石の文字も隆盛が書いたものといわれています。

同じ志しを持っていた、仲間同士の斬り合いは、
あまりにも悲しい事件ですっ。

 

現在の錦小路薩摩藩邸跡

大丸京都店
大丸京都店(錦小路薩摩藩邸跡) 当サイト中京区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>

この錦小路の薩摩藩邸は、明治3(1870)年に廃邸となりました。

そしてその敷地は、現在は大丸京都店に生まれ変わっています。
 

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