龍馬の命を救った伏見薩摩藩邸

薩摩伏見藩邸石碑1
伏見薩摩藩邸跡石碑 当サイト伏見区史跡マップ⑤番の位置 MAPはこちら>>

京都の伏見にある薩摩藩邸のおかげで、
龍馬は命拾いをしました。

というのは…

龍馬ファンじゃなくても、幕末史に興味をもっている人なら
だれもが知っている寺田屋襲撃事件!

薩長同盟の締結が済んで寺田屋に戻ってきた、
慶応2(1866)年1月23日の夜のこと。
 

寺田屋寺田屋龍馬襲撃の部屋
左:寺田屋外観 右:寺田屋龍馬襲撃の部屋 当サイト伏見区史跡マップ①番の位置 MAPはこちら>>

寺田屋で待っていた三吉慎蔵(みよししんぞう)
祝杯を上げ、そろそろ寝ようとしていたとき、
伏見奉行所の役人たちが龍馬を捕まえるために
夜中の3時ごろだというのに、襲撃してきたんですね。

そのとき、おりょうのとっさの機転で
龍馬と慎蔵は不意打ちされることなく捕吏たちと応戦し、
すきを見て逃げ出しました。

でも、龍馬は応戦した時にけがをしていたんですね。
それも、右手の指の動脈を切るという大けがを!
 

材木小屋跡地材木小屋内部写真
左:龍馬避難の材木小屋跡石碑 右:材木小屋内(霊山歴史館撮影コーナーにて撮影)
当サイト伏見区史跡マップ④番の位置 MAPはこちら>>

動脈を切っているので、龍馬の体からは
どんどん血が流れ出して止まりません。
それでもなんとか、濠川べりの材木小屋に逃げ延びました。

そして、慎蔵はもう動けない龍馬を材木小屋で待たせて、
自分ひとり、伏見薩摩藩邸に走っていきました。

伏見藩邸に着くと、そこにはおりょうの姿が!

龍馬と慎蔵が幕府の捕吏たちとやり合っている間に
おりょうは、ひと足先に伏見藩邸へ報せに行っていました。

おりょうの報せを聞いた、伏見藩士の大山彦八(おおやまひこはち)らは、
龍馬たちを待っていたんです。

そこへ慎蔵が飛び込んできたわけです!
 

濠川

すぐさま彦八らは、藩旗を立てた舟で濠川を下って
材木小屋にいる龍馬を助けに向かいました。

こうして、薩摩藩士に救助された龍馬は、
二本松の藩邸にいた、西郷隆盛(さいごうたかもり)が手配した
軍医の治療で命をとりとめたんですね。

もしも…
寺田屋で龍馬が、殺されでもしていたら…

幕末史はまったく変わっていたでしょうね!

大政奉還なんてしてなくて、武力で幕府を倒すやり方で
新しい時代の幕明けになっていた可能性が高いですよね^^;

そう思うと、このとき龍馬の命が助かったのは、
龍馬の生命力が強いというのはもちろんですが、
天が「まだ死ぬのは早い!」って生かしておいた、
そんな気がしてなりませんね^^
 

寺田屋襲撃事件以外の伏見の薩摩藩邸

薩摩伏見藩邸石碑2
伏見薩摩藩邸跡石碑
当サイト伏見区史跡マップ⑤番の位置 MAPはこちら>>

伏見にある薩摩藩邸は、江戸時代に参勤交代で
江戸(現:東京)と薩摩(現:鹿児島)を往復する際に、
薩摩藩主の島津家の歴代当主が立ち寄り滞在する場所でした。

江戸時代、各大名は、洛中(京の市街地)に宿泊することを
禁止されていたそうなんです。

そのため、市街地から少し離れ、
南に位置する伏見を宿舎にしたんですね。

2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」の主人公、
13代将軍徳川家定の正室となった天璋院篤姫も、
薩摩から江戸へ行く際にこの屋敷に入り、
ここで1週間ほど滞在したそうです。

篤姫は、この間に東福寺や萬福寺を訪ねたそうです。
この後篤姫は、一度も京都に来ることがなかったので、
人生で一度きりの京都観光になったそうです。

その後、慶応4(1868)年1月3日に鳥羽伏見の戦いが起こると、
薩摩軍は拠点を御香宮神社に移しました。

そのすきに会津藩の兵士たちの襲撃を受けて、
薩摩藩邸は焼失してしまったんです。

そして現在、伏見薩摩藩邸跡地には、
日本酒メーカーの月桂冠の関連会社で
松山酒造の敷地になっています。
 

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