幕末京都時代の桂小五郎

桂小五郎像
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京都の河原町御池通の京都ホテルオークラの敷地内、
河原町通り側に、桂小五郎(かつらこごろう)の銅像があります。

龍馬と桂小五郎が最初に出会ったのは、
京(現:京都)ではなく、江戸(現:東京)だったと思われます。

龍馬も小五郎も、剣術の修行のために江戸に来ていました。
龍馬は北辰一刀流の千葉道場、
小五郎は神道無念流(しんどうむねんりゅう)の斎藤道場で
修行を積んでいたんですね。

龍馬も小五郎も道場の塾頭をまかされるほどの腕前。

きっと二人とも、江戸で剣術修行をしていたころは、
剣術以外のことで歴史に名を残すほどの人物になるなんて
まだ想像もしていなかったんだろうなあ^^

桂小五郎写真

剣術といえば、龍馬と小五郎には、他の剣客にはない
共通のことがあります。

それは、二人とも「人を斬らない」主義だったこと。

幕末は、尊王攘夷派(そんのうじょういは)による天誅という暗殺や
新選組を筆頭に、浪士狩りという斬殺が
当たり前のように行われていた時代。

その中で、この二人はすぐれた剣術を持ちながら、
剣を抜くことを極力避けていたんです。

剣を抜けば相手を倒す実力もあったでしょうに、
小五郎は、戦いが起こると
いつの間にか雲隠れをしていたそうです。

捕吏がきたときでも、変装してまで戦いをさけ、
逃げることに徹していたそうなんです。

そのため、ついた小五郎のあだ名が「逃げの小五郎」です^^

戦いの場で人知れず逃げるって…

剣術家だけに、逃げる間合いをはかるのが
うまかったのかもしれないですね。
 

龍馬は、長州藩の中でも小五郎のことを認めていて、
慶応元(1865)年9月に故郷へ送った手紙の中でも

『当時長州に人物なしと言われていたが、
桂小五郎なる者あり。』

と書いているんです。
 

池田屋事件跡地の石碑
池田屋事件跡地の石碑
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元治元(1864)年6月5日に長州藩士を中心に
尊王攘夷志士たちが20数名集まり談合しているところを
新選組に襲われ、そのほとんどが死んでしまった、
池田屋事件がありました。

ほんとうなら、小五郎もその場にいるはずでした。

それが、たまたま当日早めに池田屋に着いた小五郎は、
まだ誰も来ていないことから、対馬藩邸に行き、
時間をつぶしている間に事件がおこり、
小五郎は助かったといわれています。

でも、長州藩京都留守居役(きょうとるすいやく)
乃美織江(のみおりえ)の手記では、

『小五郎は、池田屋より屋根を伝って逃れ、
対馬屋敷へ帰った。』

と書かれているんです。

時間をつぶしていたという発言は、小五郎の回想録
『桂小五郎京都変動ノ際動静』に書かれているんですが、
本人が書いたものだからこそそれが正しいのか、
逃げたことを隠すために時間つぶしのアリバイをつくったのか…

どっちだったんでしょうねえ^^;

個人的には、『逃げの小五郎』の異名をもつくらいだから、
すきを見て逃げた乃美織江説が合っていそうな気もします^^

どっちにしても、幕末にはとても重要な人だったので、
命を落とさずにいてくれたことは、本当によかった!
 

桂小五郎と幾松の寓居跡
桂小五郎と幾松の寓居跡
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小五郎は、京都三本木の芸妓、幾松(いくまつ)と恋仲になりました。

幾松は、長州藩が朝敵となり、
小五郎が幕府から追われる身となった時も、
自分の身の危険もかえりみず、小五郎を支えたそうです。

当時の三条大橋の下で乞食の姿になって潜んでいた小五郎に、
幾松が握り飯を持って行き、橋の上から放り投げていた
というのはよく知られていますね。

小五郎と幾松は、明治維新後に晴れて夫婦になりました。
この二人の恋は、幕末のロマンスとしても有名ですね^^
 

桂小五郎の墓幾松の墓
左側:桂小五郎の墓、右側:幾松の墓
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桂小五郎(木戸孝允(きどたかよし))のお墓は、
龍馬のお墓と同じく、
京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)にあります。

龍馬と中岡慎太郎が眠っているところよりも
少し高いところにありますね。

そして、桂小五郎のお墓の隣には、
妻の幾松(木戸松子)のお墓もあり、
二人並んで今も眠っています。
 

桂小五郎の元屋敷石長松菊園
明治時代の桂小五郎の京都での家
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左の写真は、明治になってから、
小五郎が京都にいるときに暮らした旧邸宅の別邸です。

右の写真は、もとは小五郎の旧邸宅の本邸があったところです。
現在は石長松菊園という旅館になっていますが、
旅館の名前にある「松菊」は、
小五郎の雅号からとったそうですよ^^

さすが、維新の三傑と言われるだけあって、
いくつかあるうちのひとつの家でも
大きな敷地だったんですね^^

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